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 SODと丹羽療法で
 末期の肺がんから生還!

  神奈川県 多賀名敦子
さん (68歳) 女性
    千葉県    廣野泰子さん    (66歳) 女性

 
   今回お話をうかがったのは、神奈川県にお住まいの多賀名敦子さんと千葉県にお住まいの廣野泰子さんです。おふたりは姉妹で、取材に到ったキッカケはお姉様の多賀名さんが送って下さったお手紙でした。「私の妹が末期の肺がんで土佐清水病院に入院しました。2ヵ月後、妹から電話があり、すっかりがんが良くなったので間もなく退院すると言ってきました。丹羽先生とSOD、すごいですね」
   簡潔な文章でサラリと肺がんが治った旨が書かれていて、つい、肺がんというのは簡単に治るのかもしれないという錯覚さえしてしまいました。よくよく冷静に読みかし、これはひょっとしてとんでもない事なのではと思い、さっそく多賀名さんに電話をしたのです。「ええ、そうなんですよ。今、妹は、土佐清水病院からこちらに車で帰ってくる途中なんです。遠いし長旅でつかれるといけないから、2日がかりでゆっくりと帰還しています。ええ、まさに帰還なんです。おかしいでしょ?」
   電話の向こうからとびきりの明るい笑い声が聞こえてきました。そして、落ち着いたら神奈川のお姉さん、多賀名さんのお宅でおふたりにお話をうかがう約束をしていただいたのです。
 
   10月下旬。その日は秋晴れの晴々しい1日でした。奇跡の生還をされた妹さん、廣野泰子さんの気分もおそらくこの晴天のようだと思うと、お会いするのにも心が躍りました。
   お会いして、あまりのお元気な姿に驚かされました。退院されたばかりということから、病み上がりの様相はどこかにあると思っていたのに、お顔の色つやはいいし、きびきびと動かれるその姿は、とても数ヶ月前まで末期のがん患者さんだったとは思えませんでした。「ほんとうにありがたいですね。これでも姉には仕事のしすぎで疲れた顔していると言われるんですよ(笑)」
   早くもお仕事に復帰されているとは驚きです。そんな廣野さんの闘病生活は7年前に遡ります。今の笑顔がうそのような壮絶ながんとの戦いに、思わず絶句でした。
 

 
   5回の乳がん手術そして肺への転移
 
―――
最初にがんが分かったのはいつごろだったんですか?
廣野
「7年前、始めは乳がんでした。一家で飲食の仕事をしていまして、お店だけでなくお弁当の仕出しもしていますから、忙しかったですね。自分の体の事など気にかけている暇がなかった。ただ、同じ頃、糖尿病になり、インシュリンを自分で打っていたんです。そんなときに今度は胸にしこりがみつかって、検査をしたら乳がんと言われ、すぐに手術をしました。ところが、半年くらいしたら、またしこりがむつかって、また手術。結局、千葉のその病院で4回も手術したものですから、さすがに、こんな病院ではダメだと思いました」
 
―――転院されたのですか?
廣野
「はい。東京の有名な大学病院に。そこで、がんというのは、一部分だけを切ってもダメ。特に乳がんは大きく切らないといけない。目に見えるがんの周辺にもいっぱい見えないがん細胞が散っているんだから、といわれて大きく切除したのが2年前でした。そのあと、放射線治療に入ったんですが、これがいけなかったですね。腕がまったく上げられなくなったものすから、胸の皮膚は真っ黒に焼けただれ、2回くらい皮がむけましたね。そりゃあ痛くてつらかったです。こんな治療ダメだと思いましたね。あとで丹羽先生から放射線は被爆したのと同じだと言われ、知らないってことは恐いって思いました」
 
―――丹羽先生は、レントゲン、MRI、MRA、PETなどの造影検査も被爆したのと同じことだと言いますから、
         その何倍もの放射線を25回はひどいですね。
廣野
「ですから、いろいろあって9ヶ月くらい病院にいかなかったんです。そうしたら、去年11月頃から咳が出始めた。最初は風邪かなと思っていたんですが、一向に良くならない。むしろどんどんひどくなって、咳をするたびに失禁するくらいにひどくなったんです。トイレに行きっぱなしで、夜も咳でろくに眠れない。からんだ痰の始末に一晩で2箱ものティッシュを使い切っていました」
 
―――病院へは行かれたのですか?
廣野
「あまりにもつらいので、今年の3月始めに行きました。そうしたら先生の歯切れが悪いんです。困ったような顔をして、ずいぶん薬を飲んでいなかったからなぁ、なんてつぶやいているんです。そして呼吸器科に回されて検査をしたんです。それが大変で、カメラを喉から入れて、メスで組織を切るものだから、死んでも異議申し立てませんという一筆まで書かされたんです。しかも先生が8人もずらりといて、あれこれ検査、検査。これに疲れ果てました」
 
―――まるでモルモットですね。
廣野
「そうそう、まったくそんな感じでした。おまけに結果は肺がんが胸に2ヶ所もあり、乳房にも細かいがんがたくさん散っているって言われたんです。それで先生に、もう放射線とかはいやだったので、温熱療法はできないか聞いたんです。そうしたらダメだと。さらに手術も無理だというんです。じゃ、そうすればいいんですか?と聞いたら、またうーん…と口ごもっちゃって。ですから私も、先生、もしかしたら末期なんですか?と聞いたんです。それにも返事かないんですよ。そのとき初めて、ああ、私は末期の肺がんなんどと自覚しました」
 
―――日本の病院は本人にはがん告知はしても、末期だとか、余命、
        何ヶ月というようなことはほとんど言いませんよね
廣野
「そうなんです。でも、うすうす分かりますよね。だからものすごく落ち込みました。もう死ぬんだと思うと恐くて、それで姉に相談したら、とにかくSODとアガリクスなどを送るから、じゃんじゃん飲みなさいって言われて」
 

 
   今生の別れに温泉旅行、咳で露天風呂に入れずもう死ぬんだなと…
 
―――お姉さまの多賀名さんは、どうしてSODのことを?
多賀名
「12年前に大学院で学んでいまして、そにときの教授からSODと丹羽先生の御本をいただいたことがあって、ずいぶん前に知ってはいたんです。私は美容関係を始めとする小さな会社を経営しておりまして、いろんな資料が送られてくるんです。その中にSODの資料があったんです。妹が乳がんにかかってからというもの、いつもそのことが気がかりでしたから、SODのパッケージや名前を見てふと教授のことを思い出し、資料を読んでみたんです。そうしたらがんにもよいということが書かれていて、取り寄せてみたのが去年の12月中旬でした。まず私が朝晩1包ずつ飲み始めました。すると、2ヶ月くらいで身体が軽くなり、オーバーに聞こえるかもしれませんが、身体のすべての細胞が10年くらい若くなったように感じたんです。これは理にかなった本物だと確信しました。そんなときに妹から乳がんが肺に転移してしまった≠ニ蚊の鳴くような小さい声で電話があったんです。驚愕し、動転しましたが、妹に私の2ヶ月の体験と丹羽先生の話しをして、プレゼントするからじゃんじゃん飲んでみてといいました。そして希望を持たせるため、旅行にも誘ったんです。でも、末期がんだということでしたから、正直、半ば覚悟していました」
 
廣野「あのときは周りの雰囲気がもう残り少ないからと腫れ物に触れるような感じでした。子供たちも覚悟していたようです。それで、雪が好きな私のために、3月中旬に姉と娘たちが山形の温泉に旅行に連れて行ってくれたんです」
 
多賀名「今生の別れじゃないですが、元気なうちに楽しい思い出を作ってもらいたかったんです」
 
廣野「ありがたかったです。でもね、大好きな露天風呂に入れなかったんですよ。外でしょ?寒いでしょ?冷たい空気が肺に入ると、猛烈な咳に襲われて息もできなくなるんです。ああ、もうダメなんなって」
 
多賀名「このときの彼女は、見るからに重病人という感じでしたね。ああ、もう長くはないなって誰が見ても思ったはずです。これを救えるのは丹羽先生しかいない、是が非でも診ていただこうと思って新横浜の診療所を予約したんです。あいにく先生が新横浜にいらっしゃるのが1ヶ月後で、それまでとにかくSODとアガリクスをたくさん飲ませていました」
 
廣野「その前に、糖尿病でかかっていた病院に行ったところ、ずいぶん数値が良くなっていると言われたんです。食事制限、がんばったんですねー、と褒められたけど、食事制限なんか何もしていなかった。ただ、SODなどを飲んでいただけだったんですよ。なのに、7年続けたインシュリンをもう打たなくていいとまで言われたんです。なんだか良く分からないままに姉に勧められてSODを飲んでいて、正直、あまり期待はしていなかったんです。だから、大学病院から処方された抗がん剤も並行して飲んでいたんです。でも、糖尿病の数値が下がったとき、初めてSODは本当にいいものなんだと思いましたし、丹羽先生の治療ももしかしたらと思ってんです。そして、忘れもしない4月20日でした。旅行から1ヵ月後。大学病院からは入院しないといけないと言われていましたが、丹羽先生の診察が先決でした」
 
多賀名「丹羽先生の診察を受ける半月前から妹はうちに滞在していました。滞在するとわかってから、私は、妹のためにできるかぎりのことをしてあげたいと思ったんです。それで掃除をしても取れないほこりやダニ、菌が肺に入ってはいけないと、全室のエアコンを新しいものに替え、空気清浄機と加湿器を設置しました。それとカーテンやお布団、枕、カバーなども買い揃え、大忙しでした。そして妹が来てからは、休みの日はいっしょに観劇やお食事を楽しみ、今までのことなどたくさんの話をしました。診察日までの間、SODやアガリクスなどをたくさん飲んで、丹羽先生に診察していただけるのを心待ちにしていました」
 
廣野「でも、抗がん剤は半分だけ飲んでいたんです。でもそのことは姉に怒られると思って言わなかったんです」
 
多賀名「ある日、妹の顔に湿疹ができていたんです。そうしたの?と聞きましたら、抗がん剤を飲むといつも湿疹が出るのと言うのです。だめじゃない!もうやめなさい。あと4、5日の辛抱でしょ≠ニいいました」
 

 
  
丹羽先生は10年、20年いきられるようにしてやると
 
―――そして丹羽先生の診察を受けられたんですね。いかがでしたか?
多賀名
「大学病院で撮ったレントゲンをご覧になった先生は首をかしげながら、そうかな、そうかな〜と独り言のようにおっしゃるんです。私たちの前の患者さんには、大丈夫、大丈夫、手術したら僕のところへ来なさいっておっしゃっていたのに」
 
廣野「なにかおかしいなと思っていたら、先生が私に、ええか、よく聞きなさいよ。乳がんから肺に転移したら普通の病院では間違いなく余命半年じゃ、と言われたんです。やっぱりそうかと思いました。初めて明確な答えを聞けたんです」
 
多賀名「そのとき私は思わず先生!妹は先生のお薬を1ヶ月前から飲んでいます。SOD10包と、アガリクス6包など飲んでいます。レントゲンなどの資料は1ヶ月前のものです≠ニ言ってしまったのです。そうしたら、先生の表情が変わったんです。それでか、よし、やってみようと言われええか、1年、2年の延命をしてもしょうがないやろ?ぼくのところで10年、20年生きれるようにしてあげるから≠ニおっしゃって下さったのです」
 
―――そういわれていかがでした?
多賀名
「先生の心強い言葉を伺って、助かる、生きられるんだと思うと、もう嬉しくて、嬉しくて、4人で顔を見合わせ、一転、満面の笑顔なりました。先生の助けてくださるというお話を聞くまでは、それはそれは重い空気の中におりましたから、帰り道は雲の上をふわふわ歩いているような軽やかな足取りで、感謝の気持ちいっぱいで家路につきました」
 
―――それからすぐに土佐清水病院に入院されたんですね。
廣野
「はい。大学病院には、他の病院に行くのでもう抗がん剤治療はしませんと言ったら、同じ病気で他の病院にかかっても保険は出ませんよと言われましたが、結構ですといいました。怪訝な顔をされましたね。高知県の病院に入院すると言うと、お医者さんを始め周りの人はみんなホスピスに行くんだと思っていましたね。帰りは骨になって帰ってくると思っていましたね」
 
―――土佐清水病院の入院生活はいかがでした?
廣野
「いいとこでしたよ。生薬から作られた各種のお薬とSODを飲んで、あとはのんびり過ごすように言われました。入院して半月くらいでずいぶん良くなり、あとはもう快適でした(笑)。食事も薄味でおいしくて、空気もきれい。坂道なども平気で散歩できるようになって、のんびり自由に過ごしていました。患者さんの中にはカラオケに行かれたりして、とにかく自由なんです。病院という感じじゃなかったですね。あまりに早く良くなるものですから、先生にもう退院してもいいんじゃないですか、と言ったら、名に言ってるんだ、ちゃんと治さないとお姉さまが泣くぞ!って言われて、ほんとうに暖かい先生ですよね」
 
多賀名「私も、しばしば電話をしては様子をきいていましたが、声だけでも元気になっているのが分かりました。7月中旬には2泊3日でお見舞いに土佐清水まで行きました。久しぶりに会う妹は、あまりにも元気そうで、病気のことなど忘れてしまいそうでした。そして髪をカットしてきたのですが、ほかの患者さんのカットもして、和気あいあいでした。行く前までは、重病の方が多く、大変なのだろうなと思っていたのですが、行ってみると、みなさんとてもお元気な方ばかりで、明るい病院という印象でした。きっと環境がいいのでしょうね。水、空気、そして医療のすべてが整って始めて病気も完治するのでしょうね。とても明るい気持ちで帰ってくることができました。残念だったのは土佐清水の観光ができなかったことですね(笑)。次回は4人で観光で行きたいです。四万十川や足摺岬など素晴らしい景色をゆっくり眺め、新鮮なお魚を食べたりできたらいいなと思っております」
 
―――そうですね、先生も土佐清水は日本でいちばん空気のきれいなところだとおっしゃっていますから。
多賀名
「先生にはほんとうにお世話になりました。妹に命をくださったことを思うと感謝でいっぱいです」
 
―――廣野さんは退院されてまだ1ヶ月くらいですよね。大学病院のほうには行かれました?
廣野
「行きました。担当の先生にお会いしたら、びっくりされました(笑)。レントゲンを撮ったんですが、それを見て、がんがどこかへ行ってしまった…とだけおっしゃって、呆然としてました。そして、いったいどんな治療をしたのか教えて欲しいとおっしゃるので話したら、ちゃんとノートにメモを取っていました」
 
―――担当の先生に丹羽先生の本『がん治療 究極の選択』をさしあげるといいかもしれませんね。
        論理的にがんのことやSODのことが書かれていますから。
廣野
「あれからいろんな方にSODのことや丹羽先生のことを教えてほしいって言われます。実際、SODを欲しいという方が多くて、あっという間に私の手元のSODがなくなっちゃうんですよ。本当にどんなに感謝sてもしきれないくらいです。丹羽先生始めスタッフのみなさんによろしくお伝えください」
 

 
   この2年間の間に地獄と天国を経験された廣野さん。「丹羽先生と出会うことがなかったら、もうここにはいなかった命。縁とはいえ、ありがたいことです」とおっしゃる隣でお姉さまの多賀名さんが嬉しそうに微笑む光景に思わず感動してしまいました。姉妹、家族の絆、命の重さ、尊さを改めて気づかされました。取材が終わると「これから退院のお祝い旅行で熱海に行くんですよ」とおふたりのきれいなお嬢さんも登場。今度こそ4人で大好きな露天風呂を満喫されたことと思います。

 


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